上田地域と木曾義仲・巴御前・今井兼平・今井豊成
大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」が話題になっています(2022年現在)。源頼朝を中心とするドラマの中で、
もちろん、信濃国や上田地域にも関わりが深い木曾(源)義仲も重要な存在となります。
木曾義仲の前半生についての記録は多くないようです。父、源義賢は「大蔵合戦」で源義朝(義賢の兄)によって
討たれましたが、当時2歳だった義仲(幼名は駒王丸)は畠山重能、斎藤実盛らの計らいで信濃国に逃れたとされています。
『吾妻鏡』によれば、「駒王丸(義仲)は中原兼遠の腕に抱かれて木曾谷に逃れ、「木曾次郎」と名乗って兼遠の庇護の下に
育った」とされています。
今井(中原)四郎兼平は中原兼遠の四男で「義仲四天王」のひとりとされ、義仲の最期まで行動をともにした武将としてよ
く知られています。兼平は信濃国筑摩郡今井郷(現在の松本市大字今井)に領地を得たことから「今井」姓を名乗りました。
巴御前は兼平の妹とされています(異説もあるようです)。また、中原兼遠の子とされる今井豊成(今井兼平の次男か?)が諏
訪形の荒神宮と関わりが深い人物であることも知られています。このあたりについては『諏訪形誌』271ページからの「荒
神宮(参上神社)」の項や、『諏訪形誌デジタル版』の「荒神宮とも関係が深い今井四郎兼平について」の項などをご参照く
ださい。
木曾義仲は治承4年(1180年)11月に依田城で挙兵します。小牧城もこの頃、義仲によって築かれたものと考えられてい
ます(『諏訪形誌デジタル版』の「小牧城考」をご参照ください)。翌年、義仲は白鳥河原(現在の東御市海野)に木曾衆、佐久衆、
上州衆など3000騎を結集し、越後から北陸道を進みました。その後の義仲の活躍と寿永3年(1184年)「宇治川の戦い」に
敗れた後、「粟津の戦い」で今井兼平とともに討ち死にしたことはご存じのとおりです。
一方、巴御前については『平家物語』や『源平盛衰記』などの「軍記物語」には登場するものの、当時の一次資料や鎌倉幕府が編
纂した歴史書『吾妻鏡』には記載がなく、その生涯などについては文学的な脚色も多い可能性はあります。巴御前の生涯をまとめると、
幼少から義仲とともに木曽で暮らし、「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり(『平家物語』)」
とされています。「宇治川の戦い」で義仲が敗れた後、義仲らに説得されて落ち延び、その後の足取りははっきりしていない、というこ
とのようです。
『源平盛衰記』には「落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中
国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えた」という後日談が語られ
ています。また、和田義盛の妻で、和田義直、義重の母で、建暦3年(1213年)の「和田合戦」の後尼となり、北陸道方面に行脚したと
も伝えられています。
(図版:巴御前出陣図 東京国立博物館所蔵)
巴御前の墓所とされるものは全国各地にあるようです。滋賀県大津市の「義仲寺」の寺伝では「粟津の戦いで敗死した義仲も菩提を
弔うために巴が庵を結んだ」とされていて、境内には巴の墓とされる「巴塚」があります。また、『源平盛衰記』などでは、落ち延びた
巴は現在の富山県南砺市福光で亡くなったとされていて、「巴塚公園」内には巴の遺体を葬ったとされる塚があります。また、巴の命日
と伝えられる10月22日には毎年、「巴忌」も営まれています。これら以外にも、倶利伽羅県定公園(富山県小矢部市)、新潟県上越
市の出丸稲荷公園、神奈川県小田原市の善栄寺、神奈川県横須賀市などにも巴御前の墓所とされる塚や五輪塔などがあります。
なお、『諏訪形誌』272ページには「義仲の死後、巴が尼となって荒神宮を訪れ、一族の者に挙兵以来の顛末を語ったと伝えられている」
と書かれています。その後、北陸方面に向かったとするなら、そのような可能性もあったかもしれません。また、上田市富士山馬場地籍には
「巴と山吹の供養塔」とされる室町様式の五輪塔が建てられています。これについては『諏訪形誌』45ページ「コラム 巴こぼれ話」をご
参照ください。
上田市丸子地区(旧:小県郡丸子町)は木曾義仲挙兵の地でもあり、義仲に関連した多くの遺構などがあります。木曾義仲や巴御前に関する
データのうち、「小牧山・小牧城」については「諏訪形誌を歩く」の中でお知らせ済みです。『諏訪形誌デジタル版』の「小牧城考」や「諏訪
形誌を歩く」の「小牧山に登る」などをご参照ください。ここでは、義仲が挙兵した依田(丸子地域)を中心に紹介させていただきます。
なお、本稿は『信州丸子義仲祭りパンフレット(信州丸子義仲祭り実行委員会事務局刊)』、上田市ホームページなどを参考にさせていただ
いています。
安良居神社
木曽義仲が必勝を祈願して笠懸を奉納したと伝えられています。上田市のホームページによると、その際に使用したとされる矢が奉納され、
大切に保管されている、とのことです。神社の大鳥居には「八幡宮」の額が掲げられていて、現時との関わりが強いことがうかがえます。
安良居神社の祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」で、創建は不明です。寿永元年(1182年)、義仲が「横田河原の戦い」で勝利を
納めたお礼として本殿を再建したと伝えられています。その後の火災などによって残念ながら多くの資料は失われてしまっています。
現存する本殿は弘化3年(1846年)に諏訪の宮大工2代目立川和四郎冨昌らによって改築され、嘉永元年(1848年)には拡張工事が
行われたという記録が残っています。本殿には立川流の浮彫刻が見られ、特に、脇障子にある「手長、足長像」は全国でも数少ない名作とされて
いて、上田市の有形文化財に指定されています。
上段:手長、足長像 下段:その他の彫刻 (安良居神社本殿)
丸子城跡
義仲の挙兵に従った丸子氏の居城。安良居神社北側の公園から700mほどの坂を標高684mまで登ります。眺望は抜群で、丸子町内はもちろん、
烏帽子岳や菅平の山々、浅間山も見渡せます。また、城跡に通じる道の途中には何カ所も東屋が設けられていて、気持ちよく歩けます。なお、現在の物
見櫓は平成2年(1990年)に復元されたものです。またこの城は、上田城と真田氏を有名にした「第1次神川合戦(天正13年・1585年)」で
「丸子表の戦い」の舞台ともなったところです。
岩谷堂観音(龍洞院宝蔵寺)
依田川の支流、内村川に臨む岩壁の途中にある寺です。慈覚大師が信濃路巡錫のおりに、この地に来て1本の柳の木の頭と胴と根元の部分から3体の
観音像を彫り、胴の部分で彫った観音像をこの堂の後ろにある洞窟に安置したのが始まり、とされていて、義仲が戦勝祈願をしたとも伝えられています。
また、義仲が馬で駆け上がったという「馬大門」や「義仲桜」などもあります。
依田城跡
依田城はもともと依田次郎実信の城でしたが、義仲の挙兵に当たってその拠点とするために明け渡し、義仲の居城となった城です。御嶽堂の宝龍寺
(地元では「山寺」の愛称で親しまれていて、樹齢数百年を超える枝垂桜で有名です)の駐車場から山道を小一時間歩いて、ようやくたどり着くことが
できます。城山の標高約840mで、ここからの眺望もすばらしいものがあります。また、依田城麓との間を隔てる背後の岩場には「岩谷堂岩窟古墳」
という、5世紀中葉の葬所跡が残されています。
義仲館跡(推定)
義仲の館があったとされる場所で、ここが「依田城」と呼ばれることもあるようです。『平家物語』にある「木曾は矢田城に有りけるが…」の「依田城」
はこの場所だと推定されている、とのことです。
曹洞宗東松山長福寺
丸子の中心街から少し東側には「東松山長福寺」があります。この寺は寿永2年(1183年)、義仲の開基と伝えられています。また、本堂には「朝日将軍木
曽義仲宣公大居士尊儀」と刻まれた分位牌が安置されており、寺宝となっています。